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思索に耽る苦行の軌跡
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2009/09/22 18:48:02 プライベート♪
思索
黙劇「杳体なるもの」 五

――つまり、死後の《私自身》の幻が神の幻影といふことか? 





――否! 死後の《私自身》ではない! 朧に頭蓋内の闇に浮かぶ彼の世にゐる《私自身》といふ幻影さ。





――へっ、彼の世の《私自身》といふ幻影と死後の《私自身》の幻影と如何違ふ? 





――へっへっへっ、正直に言ふと何となくそんな気がするだけさ。しかし、彼の世は彼岸を超えた或る表象以上には具体化出来ぬが、死後は《私自身》がゐないだけの世界が相変はらず日常として続く《他》のみが《存在》する具体的な世界像さ。





――それでも詰まる所は唯何となくそんな気がするだけか? 金輪際までその直感を詰めると何となくで済む問題か? 





――へっへっへっ、済むんじゃなくて済ませちまうのさ。





――随分、強引だね。





――論理的飛躍をするには強引に済ませちゃうところは強引に済ませちまへばいいのさ。





――しかし、論理的飛躍なんぞそもそも誰も望んでゐないのじゃないかね? 





――だからこそ、その論理的飛躍の最初の一歩をお前が踏み出すのさ。それ! 《杳体》と《重なり合って》みろ! 





――これまた愚問だが、そもそも《杳体》と《重なり合ふ》とは如何いふことかね? 





――へっへっへっ、何度も言ふやうだが、《杳体》と《主体》が《重なり合ふ》とは無と無限の間を揺れ動くことさ。





――それも振り子の如くね……。しかし、《主体》が《杳体》と《重なり合ふ》必然性があるとは如何しても思へぬのだが……。





――何を馬鹿なことをぬかしをるか! 必然性もへったくれもない処まで《主体》は追ひ詰められてゐるんだぜ。





――何に追ひ詰められてゐるといふんだね? 





――《主体》自体にさ。





――《主体》が《主体》を何処に追ひ詰めるといふんだね? 





――《存在》の縁さ。





――《存在》の縁? 





――さう。既に《主体》は《主体》自らによって《存在》の縁に見事に追ひ詰められた。後は《存在》の行き止まり、つまり、《存在》の断崖へと飛び込む外ない。





――《存在》の断崖だと? 





――ふっふっふっ、例へば、今現在《主体》はその居場所にちゃんとゐると思ふかい? 





――いいや、ゐるとは思へぬ。





――するとだ、《主体》は《主体》の居場所から追ひ出されてしまったといふことだ。つまり、《存在》の断崖の縁ぎりぎりの処へと追ひ詰められてしまったのさ。





――《主体》自らかが? 





――さうさ。《主体》自らが《主体》を《存在》の断崖へと追ひ詰めたのさ。後は《主体》の眼下に雲海の如く《杳体》が杳として知れずに拡がってゐるだけさ。そら、その眼下に拡がる《杳体》へ飛び込め! 





――馬鹿も休み休み言へ。飛び込める筈がないじゃないか! 





――哀しき哉、我執の《吾》の醜さよ。





――ちぇっ、《吾》が我執を捨てちまったならば《吾》は《吾》である訳がない! 





――何故さう思ふ? 我執無き《吾》もまた《吾》なり。有無を言はずにさっさと飛び込んじまふがいいのさ。





――簡単に飛び込めとお前は言ふが、杳として知れぬ中へともんどりうって飛び込む程《主体》は頑丈には出来てゐないんだぜ。









(此処で別の異形の《吾》が登場)









――ぶはっはっはっ。下らない! 実に下らない! 





――お前は誰だ! 





――お前に決まってをらうが!





――ちぇっ、また「異形の《吾》」か……。さて、そのお前が《吾》等に何用だね? 





――お前らの対話はまどろっこしくていけない。其処のお前はお前で《杳体》の何ぞやを頭で考へる前に、己を一体の実験体として《存在》の前に差し出して、《存在》の断崖に拡がってゐる雲海の如き《杳体》に飛び込んじまへばいいんだよ。そして、もっ一方のお前は、もっとはっきりと《杳体》を名指し出来ないのか? 





――ふっ、馬鹿が――。《杳体》は杳として知れぬから《杳体》なのであって、それを明確に名指し出来れば此方も《杳体》なんぞと命名してゐなかったに違ひないんだ。





――何一人合点してゐるんだい? かう言へねえのかい? 「《存在》は既に杳として知れぬ不気味な《もの》へと変容しちまった」と。





(五 終はり




自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp

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2009/09/22 03:46:15 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 三十三

――一つ尋ねるが、《死体》はお前の言ふ処の《一》かね? 





――ふむ、《死体》か……。ふっふっふっ、多分、《一》の成れの果てだらう。





――《一》の成れの果て? 





――つまり、《一》の成れの果てとは《一》の零乗のことに外ならないに違ひない筈さ。





――《死体》が《一》の零乗とは初耳だが、それではその根拠は如何? 例へば《死体》が《一》の二乗ではいけないのかね? 





――正直に言ふと、数字の上では《一》の零乗と二乗の差なんかありはしない。しかし、何となく零乗に《死》の匂ひが漂ってゐるとしか俺には解釈できなかっただけの事に過ぎぬ。つまり、それは単なる直感に過ぎぬのだ。しかし、この直感といふものは侮り難い代物だ。





――それでお前は《一》の零乗に何となく《死》の匂ひを感じたと? それはまた何故に? 





――零乗だぜ。単純化して言ふと、正数の零乗は全て《一》に帰すんだぜ。これが《死》でなくて何とする? 





――つまり、《死》は《存在》に平等に与へられてゐる、ふっふっふっ、裏を返せばそれは《慈悲》といふことかね? 





――《慈悲》ね……。多分、さうに違ひない……。此の世に《存在》しちまった《もの》には全て平等に《死》といふ《慈悲》が与へられてゐる――か! へっ、如何あってもこの《死》といふ平等が、全ての《存在》を指し示す正数といふ《存在》の零乗が《一》に帰すことと同義語だと看做せるだらう? そして、《一》といふ《単独者》といふ幻影に苛まれながら、自同律といふ不愉快極まりない《存在》の在り方を強要された《もの》達は、己が《一》=《一》といふ呪縛から最早遁れなくされて仕舞ふ。そして、一生といふ生を一回転した時に己は《死》を迎へる。俺にはこの生の一回転が即ち零乗に見えてしまったのさ。





――しかし、それは非論理的だぜ。





――へっ、《死》がそもそも非論理的ではないのかね? 





――うむ。





――更に言へば、《存在》そのものが非論理的で不合理極まりない《もの》ではないのかね? ふっふっふっ、論理的といふのは、その論理の対象となった《もの》が既に《死体》といふ非論理的な《もの》と成り果ててゐて、つまり、論理的なるといふことは、先験的に非論理的な《死》を包含した《死に体》としてしか論理として扱へぬといふ、論理的なるものの限界を論理的に露呈してゐるに過ぎぬとは思はないかい? 





――はっはっはっ。論理的なことが既に論理的なることの限界を露呈してゐるとは――。しかし、《存在》は何としても世界を論理的に認識したくて仕様がない。





――《存在》はそもそもからして矛盾してゐる《もの》さ。さうでなければ《存在》は一時も《存在》たり得ない。





――つまり、それを単純化すると矛盾を孕んでいない論理は、論理としては既に失格してゐて、それを唾棄したところで何ら《存在》に影響を及ぼさないといふことかね? 





――ああ、さうさ。端的に而も独断的に言へば此の世に数多ある論理的なる《もの》の殆どは役立たずさ。





――それでは、例へば、量子論に出くはしたことで人間は論理的なることが《死に体》しか扱ってゐないことに漸くだが、ちらりと気付き始めた……かもしれぬと考へられはしないかい?  





――否! 今もって人間は論理的な世界の構築に躍起になってゐる。





――しかし、それは《死に体》の世界に過ぎぬと? 





――ああ。論理的な世界の認識法の中に《主体》はこれまで一度も生きた《主体》として登場したことはなかった……。つまり、《主体》は解剖された《死体》としてしか論理の中には登場出来なかったのだ……。





――ふっ、それは当然だな。だって《主体》は絶えず生きてゐる《もの》だもの。生きてゐるとは即ち非論理的なことだぜ、へっ。





――其処で愚問をまた繰り返さざるを得ぬが、その《主体》とは一体全体何のことかね? 





――ふっ、己のことを《吾》と名指してしまふしかない哀しい《存在》全てのことさ。





――へっへっへっ、かうなるとまた、堂々巡りの始まりだな。





――へっ、論理的とはそもそも堂々巡りを何度も何度も繰り返さないことには、論理的飛躍が出来ぬやうに出来てゐるのさ。





――また、やれ《反体》だ、やれ《反=吾》だ、やれ《新体》だ、等々の繰り返しかね? 





――ああ、さうさ。





――しかし、それでは出口無しだぜ。





――否! お前には今この堂々巡りの自問自答の《回転》する論議の中にその《回転》の方向に垂直に屹立する、つまり、この回転する自問自答の回転軸方向に論理的なる《縄梯子》が仮初にも屹立してゐるのが見えぬのか? 





――《論理的縄梯子》? それは蜃気楼若しくは幻影と似た《もの》かね? 





――蜃気楼若しくは幻影と言へばそれはさうに違ひないが、へっ、論理的な飛躍といふのは、元来錯覚若しくは幻視無くしてはあり得ぬと思はぬか? 





(三十三の篇終はり)






自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-05367-7.jsp

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Posted by お疲れぷろぐらま (2009/09/22 12:18:34) 通報
お久しぶりです。
久々の更新、お待ちしておりました。
お元気そうでなによりです。
2009/09/22 03:44:09 プライベート♪
思索
水際 五

――ああ、醜悪極まりない! 《吾》が質量零でしか決して成し遂げなれぬ光速度までに加速し続けながら《パスカルの深淵》を自由落下した挙句の果てに、《吾》が《吾》に尚もしがみ付くことに、はて、何の意味がある? 





――しかし、《吾》とはそれでも《吾》であり続けたい《存在》ではないのかね? 





――《吾》が地獄の別称でしかないとしてもかね? 





――ああ。《吾》たる《もの》は飽くまで《吾》にしがみ付く筈さ。





――さて、その根拠は? 





――《吾》の外に《他》が《存在》するからさ。





――宇宙の涯を其処に見出さずにはゐられぬ《他》が《存在》するが故に、《吾》が《吾》にしがみ付くといふ愚行において、さて、《パスカルの深淵》を自由落下し続けた果てに光となりて此の世に遍在可能な《存在》へと変化してゐるに違ひない《吾》をその《吾》が解脱せずして、何が《存在》から解脱するといふのか? 





――へっへっへっ、《吾》さ。





――はて、《吾》は尚も《吾》にしがみ付くのじゃないかね? ふっふっふっ。





――《パスカルの深淵》を自由落下し続けて光速度を得た《吾》はその刹那、此の世から蒸発するが如く《発散》し、それでも尚《吾》は《吾》にしがみ付くのだが、しかし、《吾》は否が応でも《吾》から引き離される。





――つまり、《吾》といふ《状態》と《反=吾》といふ《状態》が《重ね合は》されると? 





――さうさ。《吾》は、二重、三重、四重、五重等々、多様な、ちぇっ、それを無限と呼べば、その無限相を自在に《重ね合は》せては、その一方でまた自在に《吾》を《吾》から《分離》させる魔術を手にした《吾》は、《吾》にしがみ付きつつも此の世に遍在するといふ矛盾を可能にするその無限なる《もの》を、自家薬籠中の《もの》にする。





――へっ、無限ね? それを無限と呼ぶのはまだ早過ぎやしないかね? 





――では何と? 





――虚無さ。





――虚無? 





――端的に言ふと、《吾》が《吾》であって而も《吾》でない《吾》といふ《もの》を形象出来るかね? 





――ふむ。《吾》であって《吾》でない《吾》か……。ふっ、しかし、《吾》とは本来さういふ《もの》じゃないかね? 





――ふっふっふっ。その通りさ。《吾》とは本来さういふやうに《存在》することを強要される。まあ、それはそれとして、さて、その虚無の《状態》である《吾》の《個時空》が如何なる《もの》か想像出来るかい? 





――《個時空》は普遍的なる《時空》へと昇華してゐる筈さ。





――つまり、此の世全てが《吾》になると? その時《他》の居場所はあるのかね? 





――……《吾》と……《他》は……つまり……《重なり合ふ》のさ。





――それは逃げ口上ではないのかね? 





――へっ、つまり、《吾》と《他》は水と油の関係の如く《重なり合ふ》ことなんぞ夢のまた夢だと? 





――ああ、仮令、《吾》と《他》が《重なり合っ》たとしても、結局、《吾》は飽くまで《吾》のままであって《他》にはなり得ぬ。





――それで構はぬではないか? 





――構わぬ? 





――断念すればいいのさ。「《吾》は何処まで行っても《吾》でしかない」とね。





――それは断念かね? それは我執ではないのかね? 





――我執で構はぬではないか? お前は《吾》に何を求めてゐるのかね? 





――正覚さ。





――正覚者が《吾》であってはいけないのか? 





――いいや、別に《吾》であっても構はぬが、しかし、……。





――しかし、何だね? 





――《吾》が虚妄に過ぎぬと《吾》が《吾》に対して言挙げして欲しいのさ。





――別にそれは正覚者でなくとも可能ではないかね? 





――ああ、その通り、正覚者でなくとも簡単至極なことだ。しかし、《吾》なる《もの》を解脱した正覚者が、「《吾》は虚妄の産物に過ぎぬ」と《吾》に対しては勿論のこと、《吾》を生んだこの悪意に満ちた宇宙に対して言挙げして欲しいのさ。





――それは何故にか? 





――《吾》自体が虚妄であって欲しいからさ。





――《吾》自体の虚妄? 





――最早《吾》が虚妄でなければ、《吾》は一時も《吾》であることを受け入れられぬからさ。





――それは《吾》が《吾》に対して怯えてゐるといふことかね? 





(五の篇終はり)






自著「夢幻空花なる思索の螺旋階段」(文芸社刊)も宜しくお願いします。詳細は下記URLを参照ください。
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2009/05/11 05:20:12 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 三十二
――《吾》が《現在》に置いて行かれる事は哀しい事なのかな? 

――ふむ。といふと? 

――唯単に、世界の《個時空》、例へばこの地球の《個時空》と《吾》の《個時空》の帳尻が合はないだけに過ぎぬのじゃないかね、この《吾》が絶えず《現在》に置いて行かれるといふのは? 

――それも一理あるが、しかし、《吾》の《個時空》と《他》の《個時空》の反りが合はないのはむしろ当然至極の事であって何も今更言ふ事でもないだらう。

――其処さ。《存在》が罠に落ちる陥穽が潜んでゐる処は。

――《存在》が罠に落ちる? 

――つまり、《単独者》といふ名の罠さ。

――へっ、キルケゴールかね――。すると《実存》といふ《存在》の在り方といふのはまんまと《存在》の罠に嵌められたその《存在》自体の無惨な成れの果てといふことかね? 

――さうさ。

――さう? 

――《存在》が《単独者》と自らを規定した刹那、《吾》の《個時空》は空転を始める。そして空転する《個時空》といふ《存在》の在り方を始めた《吾》は、絶えず《現実》といふ仮初に過ぎぬ幻影に惑はされる。

――ふっ、《現実》は幻影かね? 

――《単独者》にとっては《現実》は幻影に過ぎぬ。

――何故さう言ひ切れる? 

――《単独者》自体が《吾》の描く幻影に過ぎぬからさ。

――ふっふっふっ、陰中の陽、陽中の陰が《単独者》といふ概念には見出せぬからかね? 

――《単独者》は自ら自閉することを、眼窩、耳孔、鼻孔、口腔、肛門、生殖器等々の《外》へ開いた《存在》の穴凹を幻で塞ぐことを《現実》に強要される。

――はて、《現実》もまた《吾》の幻影でなかったのではないかね? 

――さうさ。《単独者》は世界を己の幻影で埋め尽くす。

――へっ、《吾》とは元来さうせずにはゐられぬ《存在》ではないのか! 

――何故さう言ひ切れる? 

――何故って、《現実》が絶えず《吾》の在り方を裏切り続けるからさ。

――はて、《現実》が《吾》を裏切り続けるとは、一体全体何の事かね? 

――つまり、《現実》が《吾》を裏切り続けることで生じるそのずれが《個時空》を回転させ続ける起動力になるのさ。

――《個時空》を回転させる起動力? 

――さう。《現実》が絶えず《吾》を裏切り続けないとすると、《個時空》たる《吾》も回転を停めて倒れてしまふ。

――さうすると、《現実》とは絶えず《吾》を裏切る在り方でしか《吾》には現はれないと? 

――ああ。《吾》には裏切り続ける《現実》無くしては一時も回転が維持出来ぬ《個時空》に過ぎぬと、腹を括るしかない――。

――しかし、ちぇっ、《吾》は元来「裏切らない世界」を知ってしまってゐる。

――母胎か……。つまり、ゆらゆらと自在にたゆたふ羊水の中。

――さうさ。《吾》は、元来、それを敢へて「先験的」と呼べば、世界の裏切りを全く知らずに此の世に出現させられるやうに仕組まれてゐる。

―― 《存在》は出現以前、つまり、未出現の間は裏切らない世界にたゆたふ。それは例へば、一箇所に数多の《未存在》が《未存在》し続ける事が可能といふ、つまり、《未存在》を《存在》に換言すると、一箇所に数多の《存在》が《存在》可能といふこと、つまり、《個時空》は未だ出現しない世界、それを《無時空》と名付けるが、その《無時空》の世界に自在にたゆたふ。

――へっ、《無時空》と来たか――。《無時空》を暗示させる《もの》が、母といふ《個時空》の《存在》の子宮内の羊水の中でたゆたふ胎児といふことかね? 

――身重の女性こそ《一》=《一》が成り立たないことを身を持って体現してゐる《存在》だ。

――しかし、世界を認識するには《一》=《一》の方が単純で「美しい」。

――だが、詰まる所、人間は量子論的にしか《存在》が語れぬ事に漸く気付いた。

――しかし、量子論には観察者はゐても《主体》は蚊帳の外で《存在》しない。

――つまり、今現在の人間の世界認識の仕方は、世界を解剖可能な《死んだ》世界としか認識出来てゐないといふ不幸にある――といふことか? 

(三十二の篇終はり)

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2009/05/09 05:34:43 プライベート♪
思索
睨まれし 五
――その自己否定こそ己の《存在》に対する免罪符になるかもしれぬといふ《愚劣》極まりない打算が働いてゐるのじゃないかね? くっくっくっくっ。

――何に対する免罪符といふのかね! 

――《死》に決まってるじゃないか、くっくっくっくっ。

――《死》に対する免罪符? これまた異なことを言ふ。《死》も此の世に《存在》する以上、自己否定からは遁れられやしないぜ。

――《死》が《死》を自己否定したところで、それは結局《死》でしかないんじゃないのかね? 

――否! 《死》が自己否定すれば《生》に行き着かなければならぬのさ。

――それはまた如何して? 

――さうでなければ《生》たる《存在》が浮かばれないからさ。

――別に《生》が浮かばれる必要なんぞ全くないんじゃないかね、くっくっくっくっ。

《そいつ》の言ふ通り、《生》が此の世で浮かばれる必要など、これっぽっちも無いことなど端から解かり切ってゐることなのに、私は《そいつ》のいやらしい嗤ひ顔を見てると如何しても反論せずにはゐられやしなかったのであった。

――否! 《生》は何としても此の世で浮かばれなければならぬ。それは《死》がさう望んでゐるに違ひないからさ。

――それは《生者》だけの論理だらう? 

――《生者》が《生者》の論理を語らなければ何が《生者》の論理を語るといふのか? 

――《死》がちゃんと語ってくれるさ、くっくっくっくっ。

――《死》は《生》あっての《死》だらう? 

――だから如何したといふのか? 

――ああ、成程! そうか! 《生》が《死》を、《死》が《生》を語る矛盾を抱へ込まなければ、《存在》の罠の思ふ壺といふことか――。

――はて、《存在》の罠とは何のことかね? 

――自同律さ。

――自同律? 

――例へば《吾》=《吾》が即ち《存在》の罠さ。

――くっくっくっくっ。漸く矛盾を孕んでゐない論理は論理の端くれにも置けぬといふことが解かって来たやうだな。

――しかし、《吾》は《吾》=《吾》でありたい。これは如何ともし難いのさ。

――それは当然さ。《存在》しちまった以上、《吾》は《吾》でありたいのは当然のことさ。しかし、それが大きな罠であるのもまた事実だ。

――事実? 

――ああ、事実だ。

――論より証拠だ。何処が如何事実なのか答へ給へ。

――数学が《存在》する以上、《吾》が《吾》たり得たい衝動は如何ともし難い。

――数学ね。

――数学では条件次第で自同律なんぞは如何解決しようが自由だ。

――しかし、大概の《もの》は《一》=《一》の世界が現実だと看做してゐるぜ。

――其処さ。《存在》の罠が潜んでゐるのは。

――一つ確かめておくが、お前は数学を承認するかね? 

――ふむ。数学の承認か……。実のところは迷はず「承認する」と言ひ切りたいのだが、さて、如何したものだらうか――。ふむ。一先づかう言っておかう。「世界の一位相として数学を承認する」と。

――世界の一位相? 

――ああ。世界認識の方法として数学もあり得るといふことさ。

――しかし、数学が全てではないと? 

――当然だらう。数学が支配する世界なんぞ悍(おぞ)ましくて一時もゐられやしないぜ、ふっ。

――しかし、自同律を語るには数学は便利だぜ。

――といふと? 

――例へば《一》=【《一》のx乗(xは0,1,2,3……)】が成り立つ。

――だから? 

――《一》の零乗は《一》に帰するといふ、一見すると奇妙に見える自同律が成り立つのさ。

――さて、それが如何したといふのか? 

――《一》の零乗だぜ。《死》の匂ひがすると思はないかい? 

(五の篇終はり)

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2009/05/04 05:29:46 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 三十一
――それは詰まる所、此の世に未だ《自存》した《存在》が出現してゐない《存在》の未熟さ、若しくは未完成さを指し示すのみの一つの徴表に過ぎぬ。

――つまり、世界から完全に独立した《存在》は未だ出現してゐないと? 

――その言葉を何回聞くのやら……。まあ、良い。多分、《存在》に開いた穴凹は此の世の位相を直に反映してゐる筈さ。

――つまり、《存在》は此の世を映す鏡だと? 

――違ふかね? 

――それは、断言すると、世界と《存在》は持ちつ持たれつの関係でしか此の世に出現出来ぬといふことかね? 

――ああ、さうさ。

――それじゃ、《新体》は泡沫の夢に過ぎぬといふ訳かね? 

――否、《他》が此の世に出現した以上、《新体》が出現する、つまり、この宇宙から完全に《自存》した《他》の宇宙が《新体》として必ず《外》に《存在》する筈さ。

――《外》? 

―― 《存在》に穴凹が開いてゐることから類推すると、《内》の中に《外》がある、つまり、陰陽魚太極図の目玉模様の、陰中の陽、陽中の陰、といふ《存在》の在り方が、《存在》の姿勢として折り目正しき在り方なのかもしれぬ。しかし、仮初にも《存在》は《内》と《外》といふやうに《存在》の在り方を単純化して物事を考へる癖が付いて仕舞ってゐるので、《外》と言ったまでさ。

――はっはっ。つまり、結局は自同律の問題じゃないか――。はっきり言ひ切ってしまへばいいじゃないか、「自同律は嘘っぱちだ」と! 

――……《吾》=《吾》は《吾》が《吾》と名指した《もの》の幻想に過ぎぬのは、この人間の身体一つとっても口から肛門まで《外》が《内》にあることからも自明極まりない筈だが、しかし、《吾》は如何しても《吾》=《吾》でありたい。それは何故か? 

――《吾》=《吾》でありたいだと? むしろ逆じゃないかね。《吾》は《吾》≠《吾》でありたいと? 

――さう看做したいならば、さう看做せばいいのさ。《吾》が《異形の吾》を抱へ込んだ《他=吾》である以上、《吾》が《吾》=《吾》だらうが、《吾》≠《吾》だらうが、結局は同じ事に過ぎないのだから。

――《吾》=《吾》と《吾》≠《吾》が同じだと? 

――ああ。《存在》は論理的に《吾》=《吾》であって而も《吾》≠《吾》であるといふ、ちぇっ、単純化するとその両面を持った《存在》の二重性を合理であるとしなければならぬ宿命にあるのさ。

――それは《一》=《一》であって《一》≠《一》である、論理的に「美しい」公理を打ち立てられない内は、如何あっても《吾》は自同律の底無しの穴に落下し続けるといふことかね? 

――さう、さういふことだ。漸くにして人類は量子論にまで至れたのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である世界認識の仕方への飛躍は後一寸の処じゃないかね? 

――へっ、人類は既に大昔に陰陽魚太極図の考へに至っているのだから、《一》=《一》であって《一》≠《一》である思考法はお手の物の筈なのだが……。

――へっ、それ以前に人間は音声といふ波と画数を持った量子的なる文字で出来た言の葉を使ってゐるのだから、人間が言葉で物事を考へるのであれば《自然》に《一》=《一》且《一》≠《一》の思考法で世界を認識してゐるに違ひないのだ。

――しかし、実際はさうなってゐない。それは何故かね? 

――《一》=《一》に見蕩れてしまって其処から抜け出せなくなってしまった……。

――だから、それは何故かね? 

――ぷふぃ。詰まる所、時間を止めたいからさ。

――はて、それは如何いふ意味かね? 

――つまり、《一》=《一》、換言すれば《吾》=《吾》が永劫に成り立つ時が止まった架空の世界に戯れたかったからさ。

――だから、それは何故かね? 

――《存在》は本質的に《現実》を嫌悪する《もの》だからさ。

――《現実》を嫌悪する? それはまた如何して? 

――ちぇっ、《吾》が《吾》でなくなってしまふからに決まってをらうが! 

――《吾》が《吾》でなくなる? つまり、《吾》≠《吾》が《現実》の実相といふことだらう? 

――さうさ。時が移らふ《現実》において、《吾》は絶えず《吾》でない《吾》へと移らふことを強要される。

――それは《吾》=《他=吾》故にだらう? 

――さうさ。《現実》において《吾》は絶えず《現実》に置いて行かれる、つまり、《現在》に乗り遅れる。それでゐて《吾》は絶えず《現在》であることを強要される。哀しき事だがね……。

(三十一の篇終はり)

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Posted by おつまみ店主 (2009/05/08 10:21:18) 通報
http://seafish.shoku-ichi.jp/
続きが気になります。。
2009/05/02 05:39:31 プライベート♪
思索
ざわめき 五
――皮肉ね。そもそも《存在》とは皮肉な《もの》じゃないのかね? 

――さうさ。《存在》はその出自からして皮肉そのものだ。何せ、自ら進んで《特異点》といふ名の因果律が木っ端微塵に壊れた《奈落》へ飛び込むのだからな。

――やはり《意識》が《過去》も《未来》も自在に行き交へてしまふのは、《存在》がその内部に、へっ、その漆黒の闇を閉ぢ込めた《存在》の内部に因果律が壊れた《特異点》を隠し持ってゐるからなのか? 

――そしてその《特異点》といふ名の《奈落》は《存在》を蠱惑して已まない。

――へっ、だから《特異点》に飛び込んだ《意識》は《至福》だと? 

――だって《特異点》といふ《奈落》へ飛び込めば、《意識》は《吾》を追ふことに熱中出来るんだぜ。

――さうして捕らへた《吾》をごくりと呑み込み《げっぷ》をするか――。へっ、詰まる所、《吾》はその呑み込んだ《吾》に食当たりを起こす。《吾》は《吾》を《吾》として認めやしない。つまり、《吾》を呑み込んだ《吾》は《免疫》が働き《吾》に拒絶反応を起こす。

――それは如何してか? 

――元々《吾》とは迷妄に過ぎないのさ、ちぇっ。

――それでも《吾》は《吾》として《存在》するぜ。

――本当に《吾》は《吾》として《存在》してゐるとお前は看做してゐるのかね? 

――ちぇっ、何でもお見通しなんだな。さうさ。お前の見立て通りさ。この《吾》は一時も《吾》であった試しがない。

――それでも《吾》は《吾》として《存在》させられる。

――くきぃぃぃぃぃぃぃぃんんんんんんんん〜〜。

 一時も休むことなくぴんと張り詰めた彼の周りの時空間で再び彼の耳を劈くその時空間の断末魔の如き《ざわめき》が起きたのであった。それは羊水の中から追ひ出され、臍の緒を切られて此の世で最初に肺呼吸することを余儀なくさせられた赤子の泣き声にも似て、何処かの時空間が此の世に《存在》させられ、此の世といふその時空間にとっては未知に違ひない世界で、膨脹することを宿命付けられた時空間の呻き声に彼には聞こえてしまふのであった。「時空間が膨脹するのはさぞかし苦痛に違いない」と、彼は自ら嘲笑しながら思ふのであった。

――なあ、時空間が膨脹するのは何故だらうか? 

――時空間といふ《吾》と名付けられた己に己が重なり損なってゐるからだらう? 

――己が己に重なり損なふといふことは、この時空間もやはり自同律の呪縛からは遁れられないといふことに外ならないといふことだらうが、では何故に時空間は膨脹する道を選んだのだらうか? 

――自己増殖したい為だらう? 

――自己増殖? 何故時空間は自己増殖しなければならないといふのか? 

――ふっ、つまり、時空間は此の世を時空間で占有したいのだらう。

――此の世を占有する? 何故、時空間は此の世を占有しなければならないのか? 

――「《吾》此処にあるらむ!」と叫びたいのさ。

――あるらむ? 

――へっ、さうさ、あるらむだ。

――つまり、時空間もやはり己が己である確信は持てないと? 

――ああ、さうさ。此の世自体が此の世である確信が持てぬ故に《特異点》が《存在》し得るのさ。逆に言へば《特異点》が《存在》する可能性が少しでもあるその世界は、世界自体が己を己として確信が持てぬといふことだ。

――己が己である確信が持てぬ故にこの時空間は己を求めて何処までも自己増殖しながら膨脹すると? 

――時空間が自己増殖するその切羽詰まった理由は何だと思ふ? 

――妄想が持ち切れぬのだらう。己が己に対して抱くその妄想が。

――妄想の自己増殖と来たか――。

(五 終はり)

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2009/04/27 05:56:55 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 三十
――しかし、それは深い深い慈悲から生じたとは考へられないかね? 

――つまり、この宇宙、即ち《神》すらも《死》からは遁れられぬと? 

――ああ。当然この宇宙が《存在》してゐるのが《事実》ならば、そしてそれをまた《神》と名付けるならば、《神》が此の世に《存在》してしまった以上、《神》にも当然《死》が待ってゐる。

――《死》すべく宿命付けて《神》は己も宇宙も誕生させた――。はっ。

――さうせずには何にも創生させることが出来なかったのじゃないかね? 

――何故? 

――《神》もまた己に怯えてゐるからさ。そして暗中模索の思考錯誤の末の自棄のやんばちで《神》はBig bang(ビッグバン)をおっ始めてしまった。

――その時、《神》もまた自同律の陥穽から遁れられなかったと? 

――ああ。《神》こそ自同律を最も不快に感じてゐるに違ひない。それ故、Big bangをやらかした。

――如何してさう言ひ切れるのかね? 

――へっ、《吾》と名付けられた《存在体》が此の世に《存在》するからさ。

――ぷふぃ。《吾》だと? それは苦し紛れの詭弁でしかないのじゃないかね? つまり、《吾》は誰が《吾》だと自覚するのかね? 

――当然《吾》自身さ。

――其処さ、《吾》が《吾》であると自覚する過程の中に、《吾》の外に《存在》する《他》を《他》と認識する素地はあるのかね? 

――《吾》が既に《他=吾》を抱へてゐるじゃないか――。

―― つまり、《吾》は既に《吾》であることで其処に《他=吾》といふ矛盾を抱へ込んでゐるが、しかし、それでも此の世の摂理として自同律は何としても成立させなければ《存在》は一時も《存在》たり得ぬ宿命にある。そして、《他》が此の世に出現することで此の世の涯に朧にも思ひを馳せて、宇宙にも、また《神》にも、《他》の宇宙が、《他》の《神》が、《存在》することを如何あっても自覚せねばならぬ。つまり、此の世には必ず《他》といふ《吾》の涯が《存在》すると。それ故に自己が自己であることを自覚することで、ちぇっ、其処には大いなる矛盾が潜んでゐるのだが……、自同律といふ此の世の摂理の土台を為す不愉快極まりないその摂理といふ奴を無理矢理にでも抱へ込んで此の世に《存在》しなければ、最早この宇宙が創生しちまった以上収拾がつかぬとんでもない事態に《吾》は直面してゐるに違ひないのだ。

――はて、それは如何いふ意味かね? もっと解かり易く話してくれや。

―― つまり、《吾》は《吾》である以前に《他=吾》を抱へ込んでゐる。それ故に《吾》は数多の《異形の吾》に分裂しつつも《吾》といふ統一体であらねばならぬ。つまり、自同律が成立する以上、《吾》は《吾》自身でその不愉快極まりない此の世の摂理を身を持って味はひ尽くさねばならぬ訳だ。《吾》は《吾》である、と。さうしなければ《吾》は《他》の《存在》を一時も認める事が出来ぬのさ、哀しい哉。何故って《吾》=《吾》が成立しなければ、つまり、《一》=《一》が「美しく」成立する論理的な秩序があって初めて《吾》は《他》を《他》と認められるのさ。其処には《吾》=《吾》といふ堅牢なる礎があればこそ《吾》が《他》の《存在》を漸くにして認められるといふ道理が潜んでゐると、お前は思はないかい? 

――さうして《他》の《存在》に此の世の涯を見る――か――。

―― さうさ。《他》の《存在》を《吾》が認める、つまり、《他》の死肉を喰らふこともひっくるめて自同律を受け入れるには、《個》は《個》として閉ぢる、つまり、有限であることが必要十分条件なのさ。《吾》が有限であることを、自同律を受け入れることで認めざるを得ぬ《吾》は、《吾》が閉ぢた《存在》であることを《他》の出現で否応なく認めざるを得ない。そしてこの宇宙も《自意識》を持ってゐるならば、其処には厳然と自同律が成立してゐて、この宇宙は《吾》が有限で閉ぢてゐることを自覚せざるを得ず、へっ、それは詰まる所、《吾》とは別の《他》の宇宙が《存在》することを暗示しちまってゐるのさ。

――しかし、眼窩、鼻孔、耳孔、口、肛門、生殖器等々《存在》は《他》に開かれるべく穴凹だらけだぜ。

(三十の篇終はり)

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2009/04/25 05:44:48 プライベート♪
思索
嗤ふ吾 三
 ところが、私が《闇の夢》を見るのは誠に誠に稀なことなのであるが、一方で、その稀な《闇の夢》を見ながら夢で私が闇を表象してゐることを睡眠中も朧ながら自己認識してゐる私は、秘かに心中では


――ぬぬ! 《闇の夢》だ! 


と、快哉の声を上げてゐるのもまた一つの厳然たる事実なのであった。これは大いなる自己矛盾を自ら進んで抱へ込むことに違ひなく、これは私自身本音のところでは困った事と思ひながらも、その大いなる自己矛盾に秘かにではあるが快哉の声を上げる私は、その大いなる自己矛盾を抱へてゐることに夢見の真っ只中では全く気付ず、ちらりとも秘かに快哉の声を上げてゐる自身が大いなる自己矛盾の真っ只中にゐることを何ら不思議に思はないのであった。ところで、その大いなる自己矛盾とは何かと言へばその答へは簡単明瞭である。それは無限を誘ふであらう闇に対して、私はその闇を《吾》と名指して無限へと通じてゐるに違ひない闇を、恰も《吾》といふ有限なる《もの》として無意識に扱ってゐるのである。ところがである。此処でf(x)=一/xはx=0のとき発散すると定義される《特異点》を持ち出すと、有限なる《一》が恰も無限大なる《∞》を抱へ込むことが可能な、或る種の倒錯した無限と言へば良いのか、その無限を如何しても誘ふ《発散》した状態の《一》たる《吾》といふ摩訶不思議としか形容の仕様がないそんな《吾》が此の世に《存在》可能であることを、私が《闇の夢》を見ることは示唆してもゐるのである。つまり、《一》なる《吾》が《特異点》をその内部に隠し持てば、私が無限を誘ふ闇に対して《一》なる《吾》と名指ししても《発散》可能な《吾》ならば、換言すれば《∞》を抱へ込むことすら可能な《吾》ならば、或る意味無限を誘ふ闇を有限なる《吾》と名指すことは至極《自然》な成り行きなのである。


 多分、無意識裡にはそのことを確実に感じ取ってゐたに違ひない私は、その日、《闇の夢》を見ながら


――《吾》だと、わっはっはっはっ。


と嗤へたに違ひないのである。また、さうでなくては闇がずっと闇のままであったその夢を見て


――《吾》だと、わっはっはっはっ。


などと嗤へる道理がないのである。


 しかし、闇を《吾》と名指すことには、大いなる思考の飛躍が必要なのもまた事実である。其処には恰も有限なる《吾》が無限を跨ぎ課(おほ)したかの如き《インチキ》が隠されてゐるのである。また、その《インチキ》が無ければ、私は闇を《吾》と名指すことは不可能で、更に言へば、闇を見てそれを《吾》と名指す覚悟すら持てる筈がないのである。


 この《インチキ》は、しかしながら、此の世が此の世である為には必須条件なのでもある。つまり、《特異点》といふ有限世界では矛盾である《もの》の《存在》無くして、此の世は一歩も立ち行かないのである。有限な世界に安住したい有限なる《存在》は、一見してそれが矛盾である《特異点》をでっち上げて、その《特異点》の《存在》を或る時は腫れ物に触るが如く《近似》若しくは《漸近》といふこれまた《インチキ》を用ゐてその《災難》を何となく回避し、また或る時は、《特異点》が此の世に《存在》しないが如く有限なる《もの》が振舞ふことを《自由》などと名付けてみるのであるが、それでも中にはこの《自由》が《特異点》の一位相に過ぎぬ事に気付く《もの》がゐて、運悪く此の世の《インチキ》に気付いてしまったその《もの》は《絶望》といふ《死に至る病》に罹っては、


――《自由》とは、《吾》とは何だ! 


と、世界に対して言挙げをし、己に対して毒づくのである。さうして《死に至る病》に罹った《もの》は更に此の世にぽっかりと大口を開けた陥穽を《特異点》と名付けて封印することを全的に拒否するが故に、更なる《絶望》の縁へと自ら追ひ込むしかないのである。しかしながら、さうすることが唯一此の世に《存在》した《もの》の折り目正しき姿勢に外かならないのもまた確かな筈である。つまり、《存在》する《もの》は、絶えず此の世の陥穽たる《特異点》と対峙して己自身を嘲笑するのが娑婆を生きる《もの》の唯一筋が通った《存在》の姿勢に違ひないのである。


 ところが、一方で、此の世に《存在》する《もの》は絶えず此の世にぽっかりと大口を開けた《特異点》を私事として《吾》の内部に抱へ込む離れ業を何ともあっけなくやり遂げてしまふ《もの》なのでもある。また、さうしなければ、《存在》は一時も《存在》たり得ぬのである。


 頭蓋内一つとっても其処は闇である。私の内部は《皮袋》といふ《存在》の在り方をするが故に全て闇である。そして、その闇に《特異点》が隠されてゐても何ら不思議ではなく、否、むしろ《皮袋》内部に《特異点》を隠し持ってゐると考へた方が《合理的》で至極《自然》なことなのである。さうして、更に更に更に更に《吾》が《吾》なる《もの》を突き詰めて行くと、内部は必然的に超えてはならぬ臨界をあっさりと超えてしまふものであるが、その臨界を超えると《外部》と相通じてしまふ底無しの穴凹を《吾》は見出し、《内界》=《外界》といふ摩訶不思議な境地に至る筈である。そして、それが娑婆の道理に違ひないのである。仮にさうでないとしたならば、私が外界たる世界を表象することは矛盾以外の何ものでもなく、また、夢を見ることで其処に外界たる世界を表象する不思議は全く説明できないのである。


(三の篇終はり)
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2009/04/20 04:56:38 プライベート♪
思索
幽閉、若しくは彷徨 廿九
――へっ、また堂々巡りだね。先にも言った通り《時間》を一次元的に押し込めることに元々無理があることに《存在》は薄々気付き始めてゐるが、しかし、その《時間》が無限の相を持つことを極度に嫌ってゐる。それは何故かね? 


――《時間》が無限の相を持つとは即ち渾沌に外ならないから……か……? 


――さう。無秩序が怖いのさ。《主体》内部の《意識》では《過去》と《未来》を自在に転倒させてゐるのに、その《意識》で起きてゐることが《存在》の外部で起こることを極度に嫌って、怯えてさへゐる。へっ、それは、つまり、己が怖いからだと思はないかい? 


――例へば、《主体》が思念するとそれが立ちどころに具現化してしまふ魔法をその《主体》たる《存在》が手にしたならば、其処に現はれるのは多分に収拾がつかぬ渾沌であり、またそれは、己を崩壊へと追ひ込む《実体》が《発散》するといふ《主体》が最早《存在》であり得ぬ死相のやうな相で満ちた不気味極まりない世界といふことか? 


――勿論。《主体》が魔法を手にすれば《主体》が何であれ必ず《主体》自体を滅ぼす外に《主体》には魔法の使ひ方が一向に解からぬ筈だ。


――それは……己が怖くて仕方がなく……その上怖い《もの》はそれが何であれ全て己の敵であって……「敵は殺せ!」といふ……或る種普遍化した論理の呪縛から《主体》たる《もの》……如何足掻いても……遁れられぬ《主体》の性(さが)故にか? 


――へっへっ、漸く《もの》の本質が解かって来たじゃないか。《存在》するとはそもそも《他》の《死》なくしてはあり得ぬのさ。つまり、「敵は殺せ!」の淵源に「食ひ物は殺せ!」といふ《存在》が存続するには如何あってもさうせずにはゐられぬ《殺生》が《存在》には必ず付いて回る。その上《生命》の誕生もまた何億匹の精虫の《死》と卵子の《死》の上でしか起こり得ない。これが悪意でなくて何とする! 


――付かぬ事を聞くが、《殺生》は悪意かね? ならば無機物を喰らって有機物を生成する《生き物》のことは如何考へる? 


――ちぇっ、《死》して元に還る、そして、此の世は《循環》してゐると言ひたいのかね? 


――一つ尋ねるが、《死》は悪意かね、それとも慈悲かね? 


――慈悲……か……。


――《死》して全ては無機物へと分解され、再び土に還る。


――だが、再び無機物は有機物へと変容する。


――ちぇっ、此処で、輪廻と言ひ切りたいところだがね……。 


――へっ、魂が永劫に彷徨するか――。


――ならば何故《もの》は何かへと変容することを運命付けられてゐるのか、お前には解かるかね? 


――つまり、それはこの宇宙の、換言すれば《神》の意思じゃないのかね。


――では何故この宇宙は新たな物質を創出するべく星を誕生させ、そして死滅させるのかね? 


――へっへっ、太陽系が誕生する遥か以前に星々が死滅しなかったならば吾等人間も生まれはしなかったか――へっ。


――つまり、この宇宙、即ち《神》すらも暗中模索の中、手探り状態で新たな《もの》、即ち《新体》を誕生させてゐるとすると、未完成で生まれ落ちて死する吾等《存在》共が行ふ《殺生》において未完成品が未完成品を喰らふことで完璧なる《新体》が万に一つでも誕生する《可能性》があるとするならば、《殺生》もまた《神》が未完成品たる《存在》に与へた慈悲ではないのか? 


――つまり、《死》あればこそ《新体》が創出されると? 


――太古の昔から創造と破壊は双子の兄弟のやうに、例へばヒンドゥー教のシヴァ神の如く未完成の《存在》共には表象されて来た。


――だから如何したといふのか? それは《神》が此の世の開闢の時に此の世の仕組みをさうせざるを得なかったに過ぎぬのじゃないかね?


――では何故《神》は此の世をその様にしか創出出来なかったのだらうか? 


――《神》すらも此の世に何が生まれるか解からなかった――。


――つまり、《神》すらも此の世を手探り状態でしか創出出来なかった。さうすると、新たなる存在体、即ち《新体》を誕生させてみては、その誕生してしまった《新体》がどうなるのかは《神》すらも解からず、それでも此の世に誕生してしまった《新体》はその《存在》を味はひ尽すべく全身全霊で己が《存在》の如何なるものかを体験し確認する以外にその《存在価値》がないやうに出来てゐて、未完成品に過ぎなかった《新体》が最早古びた《存在》でしかないのでそんな《存在》にはさっさと此の世から退場して貰(もら)ふべく如何しても《死》が必要だったのかもしれぬ。何故なら未だに完璧な《存在》は此の世に誕生していないからね。へっ、詰まる所、未完成品は《死》をもってその《存在》を全うするしか道は残されてゐないならば、へっ、それは或る意味《神》の無責任さでもあるが、しかし、《存在》のその《存在根拠》を《神》に全的に帰するのは今度は《存在》にとっての無責任極まりない愚行ならばだ、未完成品たる《存在》は未完成品として凛と此の世に屹立する以外、吾等未完成品の《存在》はこの宇宙に対して申し訳が立たぬとは思はぬか? 


――申し訳が立たぬ? これは異なことを言ふ。それじゃまるでこの宇宙は慈悲深き《もの》といふことじゃないか! 馬鹿が――。


――しかし、《殺生》も《死》も此の世に厳然と《存在》する。


――しかしだ、《死滅》することが定められた結局は未完成品の《存在》しか創出出来ない《神》、即ちこの宇宙は、己自身にも思ひもよらぬ《新体》が出現するのを待ち望む故に死屍累々たる《死》を用意せざるを得なかったとしてもだ、《実体》も《反体》も《反=生》も《反=死》も結局は《存在》してしまふことでその《存在》は全く報はれないのじゃないかね? 而も、己の《存在》を維持するのに《他》の《死》が必須と来てりゃあ、全く何をか況やだ。


――それでも《存在》は《死》するまで《存在》を止められない。


――さう仕組んだのは《神》自身、即ちこの宇宙自体だらう? 


(廿九の篇終はり)
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Profile
積 緋露雪
性別男性
年齢45歳
誕生1964年2月25日
星座うお座
血液O型
身長172cm
体型痩身
職業物書き
地域関東
性格穏やか
趣味読書,クラシック音楽鑑賞
チャーム特になし
自己紹介
3度の飯より思索好き今もって独身
Parts

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